対人関係を見立てる
■Freudの没後、1940年に国際精神分析雑誌第25巻において紹介された「精神分析學概説」、私たちの国では小此木(1969)が翻訳をされたことで知られております。
■エディプスコンプレックスは全ての子どもが経験すべき運命をもち、幼少期の庇護期間が延長されたことと両親との共同生活という因子から必然的に発生した、一定の「状況の影響」であると描かれているのです。
■男児にとっては、母親の養護の優しさや養育期間の長さは問わず、母親は生まれもっての「誘惑者」であり、一方、父親は彼の前に「立ちはだかる競争者」として存在すると記されているのです。
■人間を「ひとのあいだ」と書くことには、実に深い意味を感じます。2016年、心理臨床学会において紹介をした「横並びの三人座席配置」と銘打つこの空間配置は、「一方に姿勢を向ければもう一方が背を向けられる」という、三者関係の葛藤を最も如実に表す空間配置なのです。さらに三者に極端な身長差が見られない場合、「中央の者がいることによって両端の者が顔を合わせることができない」というのも、この空間配置が織りなす葛藤状況のもうひとつの側面なのです。
Oedipus complex is not a parent of rearing attitude, is caused by the situation that the person is present three people.
◼こうした空間配置を聴いて、「ああ、あれか」と思わない人は恐らくいないのではないでしょうか。三人で過ごしているのに、自分だけ背を向けられているという孤独感、これは対象関係論のHarry Stack Sullivanが「精神医学は対人関係論である(中井訳,1990)」において親友関係としてのチャムシップと疎外感としての孤独を描いたように、三人以上の人間関係を生きるというのは孤独感という直面しがたい恐怖感との遭遇でもあるのです。
◼それは時として、社会学者のGeorg Simmelが描いたように、漁夫の利や分断統治など、なんらか二項対立を誘発する動機となりうるものなのかもしれません。家族療法家のMurray Bowenが描いた「家族評価」では、客観的な観察によって斯様な対立と共闘の場面を目の当たりのできると語りました。
◼人はふたりの顔を同時に注視することはできません。一方の眼差しを凝視するときには、もう一方の眼差しは周辺視野に留まらざるをえないのが、異なる物理的環境に身を置く私たち人間というもののリアルなのです。同じ環境に身を置いていると言っても、厳密な意味で同じ緯度、同じ経度、同じ標高に存在する人間は誰も居ないのですから。
◼人が他の誰かの立ち位置に眼差しを向けたときに、自分からは目をそらされたことを誰もが感じ取ることができます。「私を見てくれない」という言葉には、こうしたリアルな実体験が克明に語られているのです。その体験を最もシンボリックに描いた空間配置が、この横並びの三人座席配置なのです。
◼そうした疎外感はたとえ均等に時間を分配したところで必ず生じます。それは「楽しい時間は直ぐに過ぎて、退屈な時間は長く感じる(一川,2006)」という諸現象でも説明がつきそうですね。「あっちの子にばかり目が向いて、私のことはちょっとしか見てくれない」という気持ちになるのです。
◼逆につらいやり取りだとどうなるでしょうか。中央の者が一方の者に厳しい叱責を加えていたとしたら、もう一方の者は死角に居て自分に目を向けられないようにするかもしれません。向こう側の者が中央の者に叱責を加えていたとしたら、中央の者を利用して死角に隠れて気配を消しているかもしれません。人は物理的な空間定位を利用して、関心が向かないように最大限に活用を試みるでしょう。さらには何かに没頭をすることで、それらのやり取りを見ないようにすることも起こりうるものです。
Person when you are three person, when you watch one of the person, not be able to watch the other person.
◼死角に位置する者は死角に位置取っているからこそ、様々な空間定位を行うこともできます。たとえば中央の者の向こうにいる人を視覚野に位置付ける空間定位を行うことです。
◼ここに中央の者の「死角をつく」という、「欺き行動」という空間行動が発生します。たとえば怒っている中央の者の背後で、死角をついて怒られている向こう側の子をからかうやり取りも発生します。さらに怒られている者に中央のヤツムカつくな(笑)というジェスチャーを展開することも可能です。怒られている者は中央の者への視線を少しだけ逸らせば、おどけた第三者が視覚野に入り、少しだけ楽しい気分になるのかもしれません。一方、怒っている中央の者は途端に掴み所のない表情を呈する目の前の者の態度に、違和感を覚えるかもしれません。
◼その視線のズレを速やかに感じ取ることができれば、背後にいる第三者の欺き行動を察知することもできるでしょう。しかし、共同注意研究の間主観的気づき(Baldwin,1995)にも見られるように、死角に位置する対象を三項対象として共有するのは著しく困難であるため、中央の者は容易にその態度変化を推し量ることができません。
◼中央の者を陥れる欺き行動に「戦術的欺き(Byrne&Whiten,1988)」や「ホワイトライ(Cole,1986;瓜生,2007)」などが知られています。海外では4歳、日本では5歳程度で、こうした欺き行動は習得されることが知られています。
◼誰かを引き付ける対象や人物を用いて誰かを欺く、それは集団競技の中にも見ることができます。ブラジルサッカーの中で用いるマリーシアのひとつである「ピラニアの犠牲(BOI DE PIRANHA)」もそのひとつでしょう。メッシクラスのスーパードリブラーを相手取るのは容易なことではありません。そこでひとりが敵の注意を一方に引き付け、避けようとして蹴り出したボールをもう一方の者が奪い取るという挟み込みの戦術が、まさに「ピラニアの犠牲」なのです。これは牛飼いがアマゾン川を渡るときに一頭の牛を使ってピラニアの注意を引き付ける故事に習ったものです。彼らの用いるマリーシアという言葉には、ルール違反の遅延行為や死角をつくラフプレイ、故意に倒れ込んで被害を訴える悪質なプレイ(カチンバ )とは一線を画した、昔ながらの知恵に溢れた処世術がこめられているのです。
When a person is to watch one of the people, not be able to watch the people of the other alone. Therefore, to attract attention to one, it is possible to deceive the other party the other is with a blind spot.Traditional Marishia of Brazil, the tactics that were skillfully use the standing position and attitude of these, is that there is a large number.
■人は誰かに姿勢を向ければ、他の誰かを背にしてしまうことになります。こうしたことが思わぬ事態に及ぶのは、合戦のような戦場においても、サッカーやバスケットボールといったフィールド競技においても、当然日常生活に身を置くスクールカウンセラーにおいても同様です。目の前のことに集中していては、思わぬ見落としが思わぬ事態に巻き込まれる場合があるのです。
■宮本武蔵は「五輪書」水の巻において、「兵法の眼付けという事」と題し、眼の付け方は大きく広く付ける目、即ち「観(かん)」の目を強調しました。私たちが対象をピンポイントに凝視している状態を「見(けん)」の目、全体を見渡せる目を「観」の目として、「観」の目は強く、「見」の目は弱く、遠い所を近く見、近い所を遠く見ること、これが兵法の専(第一とすべきこと)であると記しているのです。太刀を見ても太刀にとらわれず、目の玉は動かずに両脇を見ることが肝要であるとしているのです。
■全体を見渡せるには立ち位置を変えることが先ず重要です。一方の人に目を向けている際に、周辺視野を駆使して一方に人がいないことを確認しながら、その方向に身体を動かしつつ徐々に背後を視覚野に位置づけていくのです。全体を俯瞰できるには、前方視覚野に相手たちを位置付けなければならないのです。
It's important to stand up and change the location almost to look the whole around. You can be turning to the posture as I move a body to its way a little, and you see a target in the back, while confirming that there are no signs of the person in peripheral visual field. A device of such spatial fixed place is important.
■こうした動きの習慣を身につけるのは、戦術的に有効であるばかりか、様々な気づきにもつながり得るものです。例えば目の前の人を観察する際に、相手が見ている物、働きかけている人などを見立てられる空間定位に身を置かないと、目の前の人の行動の意味を理解することが難しくなります。あえて厳密に申し上げましょう。人の心とは「実体」ではなく「作用」です。ただ相手を見ているだけでは、相手の行動の意図は容易に推し量れません。個を基本とした見立ての危険性はそこにあるのです。我々は風が草木を揺らすように、心が実体に作用する様を「関係」で見立てることで、初めて心の働きを察することができるのです。
◼「孫子の兵法」始計篇に次のような一節があります。「兵者詭道也」とは「兵とは詭道なり」と読み、その意味とは「戦術とは相手をだます(欺く)ことである」というものです。この一文は長い間解釈が難しいとされてきました。「詭道」のくだりが「人の道に反する」と長い間思われてきたからです。
◼しかし、孫子の兵法を通して読めば、その意図するところが分かります。謀攻篇の「孫子曰く、凡そ用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ。」は、国を滅ぼすのではなく活かすことが肝要であるという意味です。また同じく謀攻篇の「上兵は謀を伐つ、其の次は交を伐つ、其の次は兵を伐つ、其の下は城を攻む。 城を攻むるの法、已むを得ずと為す。 」は、優れた兵は闘う理由をなくすようつとめ、次は相手の数的優位を断ち切るようつとめるのであり、相手を殺したり城を滅ぼすのはやむを得ないときだけです」と説いていることからも明らかです。
◼即ち、「兵者詭道也」とは相手を騙したり陥れることではなく、「無益な争いを断つ」
ことに意味があるのです。そう読み替えれば、「戦術的欺き」とは仲間からバナナを隠し取ることが目的ではなく、バナナを介して仲間と無益な争いを断つことに戦術的な狙いがあることが分かるでしょう。ホワイトライとは争い合う者の間に立って、関係を調整していることが分かるでしょう。まさに臨床家の守秘義務が「いたいけな自我を野ざらしにしないための戦術」であるとも読めますし、子どもたちのチャムシップにも同様な意味合いを感じ取ることができるのです。
The Sun Tzu is written as a "tactic is to deceive the opponent." It is anathema as contrary to human morality, they tend to be told as a logic of battlefield.However, tactics are not in order to deceive the other party, is what is also drawn a sentence that should be used in order to cut off a futile fight.