日常を戦術で見立てる     Daily life is chosen by tactics

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空間定位の心理学という試み


2016年、日本心理臨床学会のシンポジウムにおいて初めてお披露目された空間定位の心理学。空間(立ち位置)と定位(姿勢の向き)を見立てるこの心理学の新しい試みは、これまで治療枠で守られていたが故に理解されづらい、人の心に対する極めて重要な視点を提供しています。この研究を通して、今後人々の人間理解に対して新しい解決の鍵になることを切に願っています。


心と社会の科学研究所「マインド・サーカス」


専属研究員  なかおよしき



■「前に備うれば則ち後寡なく、後に備うれば則ち前寡なく、左に備うれば則ち右寡なく、右に備うれば則ち左寡なく、備えざる所なければ則ち寡なからざる所なし。寡なき者は人に備うる者なり。衆き者は人をして己に備え使むる者なり。(孫子の兵法虚実篇)」

When turning the attention for the fronts, the back direction becomes scanty.…

The Art of War Military text by Sun Tzu


■人は何かを見ているときは常に何かを背にしています。全てを見ようと注意を方々へと向ければ、反って全てが手薄になるのが我々の認知なのです。人の視覚野(Visual Field)は上下に凡そ150度、左右凡そ180度、一点を見つめた時の視覚野は約149度と言われています。即ち、日常動作の中にあって人は常時後方に180度、一点を見つめている状況では211度もの死角(Dead Space)を有していることになるのです(Gibson,1979)。


■日本整形外科学会が扱っている関節可動域(かんせつかどういき、Range Of Motion、ROM)によれば、人体の関節はほぼ前面に向けられていると言われます。 勿論、格闘家や競技者の中では背面への攻撃を得意とする者もいますが、基本的なセオリーとして、背面を取られるということはそれ自体「死角を取られる」、即ち「不利な状況に身を置く」ことを意味しているのです。


■同様な記述は孫武の「孫子の兵法」行軍篇、及び宮本武蔵の「五輪書」火の巻の中にも描かれています。「背面を高く取る」や「日や火を背負う」、及び「左方向に追い詰める」とは、中国武術や日本の剣術において、多くが左側に姿勢をひらいて行われることから鑑みれば、相手の死角を悪所へと追い込むことに戦術的な有利性があることを意味しているからなのです。


■右上の図をご覧ください。〇は人、⌒は視覚野の向きを表しています。/の線は両足の踵の位置を表しているのです。さらに右の図の格闘家を描く際に、このような表記で描くことになるのです。この図によれば上方向を見ているが下方向は背後となり、さらに踵の位置から左前方は動作の対応が円滑な箇所、右後ろは動作での対応が困難な場所ということになります。武術ではしばしば「虚実」と表されますが、まさに右背後が「虚」、左前方が「実」になります。武術においては自身の実を用いて相手の虚を不利な場所へと追い込むことが戦術となるのです。

When an enemy and one are a lefty each other, the following tactics are used. An enemy is placed in front of the left. It's aimed behind the enemy's right. Or an enemy is driven into the place the weapon which is behind the right is difficult to use where.




■こうした戦術を具体的に用いた格闘家がいました。K-1及びPRIDEなどで勝ち続けた格闘家のミルコ・クロコップ選手です。彼は左利きのファイターで、特に左奥脚から放たれるハイキックは一撃必殺との呼び名も高く、当時最高峰のストライカーでした。

■「K-1 WORLD GP 2002 IN NAGOYA」において当時K-1チャンピオンであったマーク・ハント選手(右利き)との対戦で、ミルコ選手は静かに右方向の逆

時計回りに回りながら、ハント選手の得意とする右パンチの制空権から離れつつ、自身の左ハイキックの射程圏内にハント選手を位置づけるという戦術を行いました。試合後の「すぽると!」において角田信朗は次のように解説をしました。「ミルコ選手は右下段のローキックで旋回を止め、左右のパンチによって空間を作り、相手を常に左ハイキックを当てる場所に位置付けているのです。」



■しかし、こうした戦術は長くは続きませんでした。当時、ミルコ選手の総合格闘技経験20試合中、13試合もレスラーとの対戦が重なり、「プロレスキラー」なる呼び名もささやかれていたミルコ選手でしたから、自身の得意技であった右のローキックを、「足を取られるから」との理由で自ら封印してしまったのです。

■それを見逃さなかったのが、総合格闘技界で無敗を誇り、「皇帝」の呼び名で呼ばれたエメリヤーエンコ・ヒョードル選手を抱えたロシアの格闘技団体レッドデビルです。PRIDE GRAND PRIX 2005決勝戦において、ヒョードル選手はまさかミルコ選手が封印したローキック方向への時計回りによる旋回を展開し、リングを回ること推定40周以上、ミルコ選手の得意のハイキックを僅か二打に抑えて見事立ち技の制空権を奪取して勝利を収めたのでした。

■ミルコ選手は試合後に第一ラウンドで疲れ切ってしまったと発言していました。第一ラウンドとは他ならぬ、ヒョードル選手が時計回りに追いまわしたその場面でした。



■こうした戦術を利用した選手に、前田憲作率いるチーム・ドラゴンの澤屋敷純一選手がいました。澤屋敷選手(右利き)はK-1 WORLD GP 2007 IN YOKOHAMAにおいて「K-1の番長」と呼ばれる強豪ジェロム・レ・バンナ選手(左利き)とわずか二戦にして対戦し、二度のダウンを奪っています。その戦術はバンナ選手の虚に回る時計回りの旋回であり、まさにヒョードル選手が用いた戦術でした。





■この旋回術は踵の位置を表す直線にも見られるように、相手の姿勢が開いている向きの反対側に移動し続けることにより、ミルコ選手が発言したような疲労状態に追い込む空間定位の戦術ということになります。「見えてはいても動けない」という配置状況は、選手たちに対して只ならぬ不安感と緊張感と喚起するものでもあります。

■これはある意味で、Freudの指摘した現実不安(Realistic anxiety)の最も具体的な例でもあります。自分は相手に対して対応できる手札が右側面にしかありませんが、相手は左右において自身の制空権に相手を位置付けることができます。即ち、相手はよりたくさんの選択肢をもって、いつでも相手が望む時に相手を仕留めることができる空間に身を置いているということでもあるのです。

■これまで不安を始めとした心の諸現象は、多くの場合個人の生理学的な要因や成育歴といったパーソナルな要因に帰属される傾向にありました。しかし、Kurt Lewinが環境(environment)の要因を強調していたように、人の行動や発達というものは個人の内的要因だけではなく、環境要因を含めた状況要因の影響からも多く影響を受けていると考えるべきでしょう。

■この空間定位の心理学では、人の心を空間(立ち位置)と定位(姿勢の向き)で分析をしていきます。それは生理学的要因や個人の人生の歴史といったものが、個人の努力などで変えられるものではないことを鑑みれば、環境要因という自分の工夫如何で乗り越えることが可能な要因で見立てるため、解決行動をより具体的に考えることができることに狙いがあるのです。

Psychology of the spatial fixed place analyzes person's heart by space (the leaving location) and the fixed place (the direction of the posture). It isn't possible to change a physiology-like factor and history in a personal life, but it's possible to consider solved behavior concretely because an environmental factor can be devised by itself.